魯迅先生逝去81周年碑前祭が開催 中国人留学生と仙台市民が交流

   

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こんにちは!東北大学学生記者のリンビンチンです! 10月19日は魯迅先生逝世八十一周年でした。日中友好協会の武智先生が私を誘って、碑前演奏をしました。あの日は雨の日でした、仙台の気温も急に寒くなりました。では、私は魯迅先生の生涯と魯迅祭の内容を皆さんに紹介いたします。

魯迅先生の紹介

魯迅先生は1881年9月25日に生まれ、1936年10月19日に亡くなりました。中国ではとても有名な大文豪で原名周樟寿、改名後は周樹人となりました。「魯迅」は1918年「狂人日記」を発表した時使っていたペンネームでした。日本の皆さんは多分知らないと思いますが、魯迅は「新文化運動」の重要な参加者で、この運動は青年たちが文字を使って、新中国の政治、文化と思想を改革するためにしたものです。魯迅が新しい中国人の思想を目覚めさせる作家としてこの時期に活躍していました。

「狂人日記」は雑誌「新青年」に登載された中国初期の現代文小説でした。この文の中で中国の封建思想を風刺し、自分を見直す事を導き、中国人の民族の自覚を呼び覚ましました。最終は魯迅の短編小説集「吶喊」に収録されていました。

もう一つ有名な作品は中編小説「阿Q正伝」、この小説の一部は中国の小学校と中学校の教科書で収録されています。この文章は、辛亥革命は本当の改革ではない事を批判するもので、魯迅は主人公阿Qを通じて、人間の下劣な本性を表していました。

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魯迅と仙台の出会い

魯迅先生は1902年、22歳の時日本に留学し、1904年、24歳の時仙台の東北大学医学部の前身である仙台医学専門学校に入学し医学を勉強しました。留学の期間は1904年から1906年3月までの1年半ぐらいでした。この時、魯迅の小説中の「藤野先生」と出会いました。藤野先生は魯迅に対してとても優しくて、二人の間に深い友情が生まれました。藤野先生は魯迅先生の生涯に影響を与えた先生でした。

現在、仙台市博物館の敷地の一角にある魯迅先生の記念碑(魯迅之碑、題字は郭沫若先生書)は宮城県石巻特産の「稲井岩」で作られ、その高さは4.5メートル、幅は2メートル、重さ10トンという巨石でありました。また、東北大学の片平キャンパスには魯迅先生の像が一つあります。

10月19日の魯迅先生碑前祭

1961年4月5日「魯迅之碑」の除幕式が挙行されてのち、毎年魯迅先生の命日に魯迅先生を慕う仙台市民が碑前祭を行ってきました。今年も仙台市の伊藤副市長、宮城県日中友好協会の会長江幡武先生、仙台地域中国学友会、宮城県経済商工観光部、仙台市観光国際協会と仙台市観光局交流企画課を含む、全部で40人前後が参加しました。まずは、伊藤副市長さんと皆様のご挨拶、また魯迅先生の偉業紹介、魯迅之碑献花、そして筆者の中国琴の演奏でした。

碑前演奏

魯迅祭で演奏した曲が二つあり、一つは「袖梦」(xiu meng)、もう一つは「溟山」(ming shan)でした。 「袖梦」は中国の古典民間舞踊「水袖舞」から着想して創作された曲です。ダンサーは 袖口に長い白絹がついている服装をしています。踊る時は長い袖は「滝」のように流れて、「力」と「美」を表している芸術です。「溟山」は中国音楽学院の王中山先生が中国湘西の地方音楽を素材として、斬新な演奏技法を使って中国琴のため特別に創作された作品です。曲は山の幽遠、神秘と四季の変化を描いたものです。特に楽曲中、左手で急速に演奏する技術は伝統の琴曲と比べ物にならないぐらいです。

留学生交流会

銀座ライオン一番町店で、日中友好協会の皆様と仙台地中国学友会の全員で23名が交流会を行いました。筆者と友達の馬さんと一緒に参加しました。日本の方の尊敬と友好を肌身で感じられ、先生たちは自分の気持ちを込めて魯迅先生のことを話し、留学生と交流しました。日中友好協会の皆さんは親身になって交流し、温かい関心は留学生達の不安を和らげました。魯迅先生と藤野先生の友情は多分こう言う形かも知れないと考えさせました。文化の背景の違いを持っていても、人と人の心、又、音楽は共通なものと言われています。魯迅先生碑前祭を機会に沢山の日本の方の外国人に対する優しさと文化に対する尊重を感じました。

最後に魯迅先生の名句を引用します:「もともと、地の上に路はない。歩む者多ければ、自ずと道を成す。」(地上本没有路,走的人多了,就成了路。)日本の留学生達が自分の道を探せるように。

 

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林冰清 (リン ビンチン)
1991年生まれ。中国杭州市出身。アメリカ・マイアミ大学卒業、現在東北大学経済学研究科在学中(修士1年生)。専門は経済史と対比研究。政治プレス新聞社・学生記者。

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