ミュシャから読み解くチェコの歴史

   

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ミュシャ

国立新美術館で開催されている「国立新美術館開館10周年・チェコ文化年事業 ミュシャ展」が6月5日(月)で最終日を迎えます。

アール・ヌーヴォーを代表する画家・デザイナーとして知られるミュシャ。繊細なラインと優美な面立ちの女性のイラストは日本でも根強い人気があります。

今回の「ミュシャ展」は広く知られたポスターデザインの他、チェコの伝承・神話および歴史を描いた約20点もの大作『スラヴ叙事詩』を展示。

ミュシャの生きた激動の時代に東欧・中欧担当ライター 新田浩之記者が迫ります。(編集部)

今回は中央ヨーロッパの国、チェコ共和国とチェコ人の画家、ミュシャを取り上げる。

今年は日本とチェコとの国交回復60年にあたる。そのため、全国各地でチェコに関するイベントが開催されている。

東京では6月5日まで、東京・国立新美術館で「ミュシャ展」が行われている。この記事では、ミュシャとチェコの歴史を少し紐解いてみたい。

チェコ人の画家、ミュシャ

ミュシャ

現在に残っているミュシャの肖像写真。

そもそも、ミュシャがチェコ人の画家であること自体、知らない方が多いのではないだろうか。

ミュシャは1860年にオーストリア領モラビア(現在のチェコ)で生まれた。

ミュシャはフランス語読みで、チェコ語読みでは「ムハ」になる。

ウィーンやミュンヘンで活動した後、27歳の時にパリに移住した。

その後、パリで次々と名作を描いたことから「フランスの画家」というイメージが根付いたのだろう。

「ミュシャ」と聞くと、美しい女性や植物を描いたポスターを想像される方も多いだろう。

これらの作品はパリ時代に描かれており、ミュシャの代表作となっている。

代表作としては『ラマ』(1898年)、『白い象の伝説』(1894年)、『主の祈り』(1899年)が挙げられる。

「スラヴ叙事詩」に隠されたチェコの歴史

スラヴ叙事詩

しかし、ミュシャはチェコ・スラブをモチーフとした絵画作品もある。それが、「ミュシャ展」で話題となっている『スラヴ叙事詩』だ。

この作品は1912年から10年以上もかけて、チェコの首都プラハの近郊で描かれた。

計20点のぼる大作だが、大々的に公開されたのは2012年だった。

今回、東京で行われている『ミュシャ展』では『スラヴ叙事詩』が初めてチェコ国外で公開されているので、大きな話題となっている。

ぜひ『スラヴ叙事詩』からミュシャとチェコの魂を感じて頂きたい。

『スラヴ叙事詩』とチェコの民族運動の盛り上がり

チェコの歴史を少しでも知っておくと『スラヴ叙事詩』への見方が少し変わるかもしれない。

チェコが近代的な独立国家を持ったのは新しい。「チェコスロバキア」として独立したのは1918年のことだ。

それまではハプスブルク帝国に支配されていた。「スラヴ叙事詩」が描き始めたのは1912年なので、ハプスブルク帝国時代にあたる。

それでは、ハプスブルク帝国支配下のチェコはどのような状況だったのだろうか。

一言で述べるなら、チェコ人が自分たちのアイデンティティーを見出した時代だ。

18世紀、ハプスブルク帝国は啓蒙思想を背景に「ドイツ語化」を進めていた。

マリア・テレジアの息子にあたるヨーゼフ2世は帝国内の行政用語を全てドイツ語にする決定をした。

この時、チェコ語は単なる「農民語」で、チェコ文化は全くと言っていいほど発展していなかった。

「ドイツ語化」を進める帝国に対して、立ち上がったのがチェコ人の知識人だった。

彼らは「チェコ語辞典」の作成など、チェコ語を「文化語」にすることから始めた。

また、チェコ語が役所でも使えるように皇帝への請願活動も行われた。

その結果、チェコ語はドイツ語と同じ地位を獲得した。チェコ文化も大きく発展し、民族運動は大きく盛り上がった。

ミュシャの祖国への貢献

ミュシャはパリ、そしてプラハから、そのような激動のチェコを見つめていたに違いない。

ミュシャは『スラヴ叙事詩』以外にも、プラハにある聖ヴィート教会のステンドグラスやプラハ市民会館にある市長の間の壁画を製作している。

チェコ人ひいてはスラヴ民族の「民族再生」への思いをミュシャは「絵」を通して表現したのだ。

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1987年生まれ。神戸市出身。神戸大学大学院国際文化学研究科修了(国際関係・比較政治論コース)。専門はユーゴスラビアといった中東欧の政治・国際関係。 民間企業に勤務後、3ヶ月間の中東欧でのバックパッカー体験を経て、2016年より独立。『Compathy Magazine』『TRIP’S』など複数のメディアで活躍中。

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