【特集】「習近平指導部2期目始動~今後の中国の行方~」(下)

   

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【特集】「習近平指導部2期目始動~今後の中国の行方~」

習近平総書記が党規約に自らの政治思想を明記し、行動指針としたことなどで注目を集めた、第19回党大会が10月24日閉幕し、翌25日に2期目の習近平指導部が発足した。今回の党大会で行われた政治報告や、人事における注目点について東北文化学園大学で中国政治について研究している王元(おう げん)教授へお話を伺った。

今回の特集では以下の5項目を(上)・(中)・(下)の3回に分けて掲載する。

(上)記事へのリンクはこちら

1.習近平政権1期目を振り返って

2.人事について

(中)記事へのリンクはこちら

3.今後の政治体制について

4.中国社会の弱点とは

(下)【本記事】

5.中国を見る目

(以下、インタビュー)

 

5.中国を見る目:「民主主義」について

権力闘争史観

日本では、いわゆる権力闘争史観を軸に現代中国の政治を見ていることが多い。権力闘争はどこの国にも存在するが、権力闘争の視点のみで中国を見てしまうことは視野が狭すぎると言えないだろうか。人々が権力闘争史観で中国政治を見るようになった原因の1つは文化大革命にあると言えるだろう。さらに言えば、王朝時代の宮廷政治も権力闘争と結びつけられる原因の1つでもある。

文化大革命時代における毛沢東政治には問題点がいくつかあったが、その1つは個人崇拝、もう1つは戦争の時代に通用した権力闘争のやり方を平和的時代(建国以降)にも適用したことだ。果てしない権力闘争が政権の方向性を歪む、効率を低下させ、さらに政権の存続を脅かす存在になったのだ。

習近平氏が強権の証拠として3期目も政権にとどまるではないかという報道がなされているが、政治家が長期政権を目指すことは他国同様である。自分たちのためにも、組織(部下)のためにも政治家は権力維持に余念がない。欧米や日本の場合は、制度化された競争的な政党政治で、政治体制の効率と安定を維持しながら権力闘争をしてきた。このようなルールの下での権力闘争は、むしろ政治体制に活力を与えるためになると言える。

中国における権力闘争の制度化は、鄧小平時代に文化大革命の教訓から学び、個人崇拝と終身制にメスが入った結果、任期制が導入され、年齢制限などが厳しく設けられることとなった。その上、日本の自民党の「一党独大(一党優位政党制)」を参考に党と政府の組織を改革し、「集団指導制」や「党政分開(編集部注:党と政府の分離)」を断行した。1980年代の中国において、欧米よりも日本の政治体制は実効性が高いと評価されたのだ。ポスト天安門時代における中国政治体制の安定性と効率化をもたらしたのはこのような制度化に他ならない。勿論、中国政治の制度化はまだまだ発展途上にあり、これからも進化していくだろう。そして、習近平氏が3期目も政権にとどまるなら、中国政治体制における制度化の後退を意味するだろう。

政治民主と民主政治

中国を見る目として、中国社会が目指す理想とそれを達成するために使われる手段とに分けて見る必要がある。意外に感じるかもしれないが、中国が目指す理想は「民主主義」である。しかしここでいう「民主主義」は、日本で中国批判の際に使われるような「民主主義」、すなわち欧米で言われる「政治制度」ではなく、国民の福利の増進と国際協力などの理念や価値観である。

私は、「民主主義」を理念と制度の2つの面に分ける必要があると考えている。例えば、理念の面を「政治民主」制度や体制を「民主政治」とする。すなわち、普遍的な価値としての民主主義と、手段・方法としての民主主義である。普遍的な価値というのは、君主・貴族ではなく、民を幸せにするのが民主主義であって、これは世界の何処でも変わることがないからである。

◇「政治民主」

このような、多数の人(民衆)のための政治というのは現代以後のことである。歴史上、多数による政治もあったが、1人(君主)や少数(寡頭・貴族)による政治がより普遍的なものである。その原因は現代までの「民主政治」はしばしば混乱と腐敗を起こし、制御が難しい、悪い「衆愚政治」に陥りやすいからだ。

それだけではなく、そもそも民衆の政治参加は権力の継承の際、混乱が生じやすいという面がある。知識水準と生活環境から民衆の政治参加の要求は高くないときもあった。しかし近代以後、生活水準の向上と知識の遍在化により民衆の政治参加が必然になり、それに応えたアメリカデモクラシーが強大な国力を背景に成功したため、現代世界に普及し始まった。

これはこれで悪くはないが、「民主主義」対「専制主義」という二元対立史観でこれまでのすべての人類史を見てしまうという問題も生じた。同時に、「民主主義」が人・民族・国家を攻撃するための道具としての歴史が始まった。このような民主主義の原理主義化は現代世界の数多くの問題を生み出している。

◇「民主政治」

もう1つの面である「民主政治」は、「政治民主」(理念)を実現するための政治体制・制度など手段や方法であって、それぞれの国における若干の違いは容認しなければならない。普遍的な価値の部分、民を幸福にするという理念としての民主主義の部分は皆認めていて変わることはないが、社会の条件や事情が異なる中で、理念を実現するための制度や体制が異なるのは自然なことであるからだ。この部分を考慮しなければ、「民主主義」を自国を基準として捉えることとなり、自らと異なるものは民主主義でないことになってしまう。

米国で「成功」した二大政党制が日本でうまくいかなかったように、同じ「民主主義」を取っていても、必ずしも同じやり方が成功するとは限らないということだ。また、もし1度成功したとしても、未来も必ず成功し続けるとは限らない。

したがって、中国が理想とする「民主主義」を、日本や米国のような政治体制を取っていないからといって、「民主主義」ではないと評価すべきでないだろう。政治体制や制度の観点から理念・価値を評価するのは間違っている。

◇民主主義に必要な要素

このように、民主主義を理念と制度・体制の2つに分けて考えれば、理念としての、すなわち普遍的な価値としての民主主義を実現するために必要な要素と何かが見えてくる。まずは国民の幸福。さらに、国際理解と国際協力をし合うことの2つだ。

理念におけるこの2つの要素について、過去30年間の実績から見ればわかるように、国民の幸福についてはもちろんのこと、国際協力の部分においても、中国は積極的に行ってきたし、これからもさらに積極的に行っていくであろう。中国は陸続きで、周辺を様々な国や民族に囲まれていることもあって、衝突や紛争が多発する面もあるが、昔から国際協力・地域協力の知恵があり、周囲との付き合い方のスキルが確立されている面もある。

制度や体制についても、一党支配が良くないことは確かであるが、一党多派・集団指導などを制度面を改善して規則の下でこれを破らずに維持することができれば、習近平指導部2期目が終了する5年後には、成功した国家の1つの形として認めても良いのではないかと見ている。社会において最も大切なことは、民を幸せにすることや、国際協力をすることであって、実際それらが実現されるのであれば民主主義政治体制として成功したと評価すべきであろう。中国が作ろうとしている中国式の民主主義政治体制は、世界的に広く認められているわけではないが、少しずつ認識されるようになってきている段階にある。

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漢字民主主義

学問としての政治学においては、「民主主義」という概念には二つの意味が内包されており、2つの意味で使用されていることは以前から既に認識されていた。実際私が「民主政治」と「政治民主」の2つに分けて使い始めたのは1989年の3月だった。当時私はある新聞から要請を受け、「政治民主と民主政治」というタイトルで論評を書き上げ、4月初めに掲載する予定だったが、当時の混乱した状況の中で、この新聞が発行停止されたため、この論評を世に出すことはできなかった。

しかし学者たちが説を表しても、大衆がうまく使い分けをしない限り、概念の混乱が深まる。日本語ではdemocracyは、主に政体を指す場合は「民主政」、制度を指す場合は「民主制」とも訳される。要するに「民主政体」と「民主制度」の2つに分けることである。しかし、共に「みんしゅせい」という発音が同じであるため、社会的な混乱を避けることはできない。その上、特に思想・理念を指すための「民主主義」(デモクラティズム、英: democratism)が使用される場合もあるため、一層混乱が深まる。

日本社会では長い間、この両面を1つの「民主主義」で補ってきた。日本には漢字と仮名があり、分けようと思えば、分けて使うことは可能であろう。しかし、日本以上に困るのは中国であろう。中国には文字が漢字しかなく、全ての概念は漢字で示さなければならない。中国語の「民主」は名詞の他、形容詞としても使われている。形容詞としての「民主」とは「民主的である」や「人の意見を聞く」である。「不民主」とは「人の意見を聞かない」や「横暴」という意味になる。中国語の「民主(minzhu)」の響きのよさは別格であり、「デモクラシー」や「デモクラティズム」より強い善悪の倫理判断の意味が含まれる。日中の民主主義への信仰は漢字による部分が強く加味されている。

「民主」より「人権」

私は復旦大学で教員になったのは30年前の1988年の夏だった。その半年後、天安門事件が発生した。その時、大学生は「民主」と「自由」を求めた。この混乱した状況の中で、私は「このやり方で中国に民主と自由をもたらすことが出来るのか」と考え始めた。また、我々が求めていたのは、「民主・自由」より「法治・人権」であると感じた。

その後、海外に留学してから、諸外国の政治の混乱と経済の停滞を目の当たりにして、世には完壁な政治制度は存在しない、米国式の「民主政治」は豊かな経済と高度に実現した人権に守られていると思うになった。30年の時間が過ぎた今の私が切実に考えているのは、中国に必要なのは「民主政治」より「民主権利」、すなわち「人権」である。「法治・人権」は「民主・自由」そのものであり、一歩一歩確実に求められるものである。

この30年間、中国は大きく変貌した。不完全でありながらも中国の「民主」と「自由」も確実に改善してきた。現に、今では年に日本の全人口に相当する約一億三千万の中国人が世界中飛びまわって旅することが出来ている。これは移動の自由無しにできないであろう。内陸にある自分の故郷も確実に豊かになったし、都市化が大きく進んだことで、農村人口(即ち農村戸籍)が大幅に減少したことも重要であろう。その上、政治体制の安定性が増していることも評価すべきではないだろうか。花より団子。中国は民主主義の外見よりも実質を求めて前進してきた。

だが不満も残っている。言論の自由である。これから中国は言論の自由を改善しなければならない。そして不安もある。それは、個人崇拝により集団指導制が骨抜きにされることである。

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