中国人の国民性について-西洋文明との関係-(3)[福島大・手代木教授]

      2018/04/30

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【特集】中国人の国民性について-西洋文明との関係-(3)

中国人の性格とは何なのか。

これは、大国化していく中国に今後否応なしに向き合っていかねばならない我々に突き付けられた、解明すべき1つの課題であるとも言えよう。

実は、中国では近代から現代にいたるまで、様々なレベルで自分たちの国民性に関する議論が行われてきた。

この中国人自身による国民性の議論は、近代以降、中国が積極的に取り入れた西洋文明と、それらを広く宣伝した西洋人(宣教師)が持つ中国認識に強い影響を受けていた。

今回、中国国民性の形成などについて詳しい福島大学経済経営学類・手代木有児教授から、近現代の中国で繰り返されてきた国民性議論の実態、その時代背景などについて話を聞いた。

手代木 有児(てしろぎ ゆうじ)

福島大学経済経営学類教授。
1958年東京都生まれ。1988年東北大学大学院文学研究科博士課程後期中退、福島大学経済学部講師、同助教授を経て、2002年福島大学経済学部教授、2004年福島大学経済経営学類教授。研究テーマは、清末における西洋体験と文明観、中国近代における自己認識(国民性認識)の形成。
著書に、『清末中国の西洋体験と文明観』( 汲古書院, 2013)、佐藤慎一編『近代中国の思索者たち』(分担執筆「梁啓超―『史界革命』と明治の歴史学―」 大修館書店, 1998)、魯迅生誕110周年仙台記念祭実行委員会編『魯迅と日本』(分担執筆「図録魯迅の生涯」、魯迅生誕110周年仙台記念祭実行委員会, 1991)など。

(以下、インタビュー)

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伝統的文明観の揺らぎ、その転換

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1870年代後半以降、知識人の間では二千年来の伝統的文明観(中国が生んだ文明「中華」が唯一の文明であり、中国は世界の中心である。西洋は野蛮な「夷狄」であるという文明観)が揺らぎ、徐々にその転換が進んでいった。

この文明観の転換は、以下3つの段階に分けられよう。

①「夷狄」が「中華」に接近していることの発見
これは「中華」の「徳」が西洋に広がり、その結果として西洋における社会福祉制度・議会制度などが興った、という捉え方である。当時の伝統的知識人からすると、西洋のそうした先進的な制度は、『礼記』、『論語』などの儒教の経典に書いてあることの具体化として見なされていた。あくまで儒教的な価値観を基準として、中国の尺度で西洋の文明を評価していた。

②「中華」と「夷狄」の逆転
中国では既に廃れてしまった「中華」の核心たる儒教的価値観が、西洋でこそ実現している(経典の具体化)という捉え方である。しかしこちらも、あくまで儒教的価値観が基準であって、その価値観が最高のものであるという認識に変化はない。中国で失われた「中華」の教え(儒教)が、西洋に広がって開花した、という認識である。文明観の変動がこの段階で止まっている事例は、新型知識人より上の世代に見出せる。

③「中華」と「夷狄」から、「中国」と「西洋」へ
「中華」と「夷狄」という関係ではなく、西洋と中国は異質な文明をもつとする捉え方である。西洋には、中国における中華的価値観(儒教的価値観)とは異なる、別の文明・価値観があるとし、かつ中国と西洋の関係が全く対等であると言うより、西洋の方が優位にあると考えられた。この段階まで文明観を転換させたのは、新型知識人の世代であった。

この①~③のような文明観の転換過程は、日清戦争より早く1870年代後半から80年代初に、一部の先進的知識人においてあらわれはじめる。

西洋文明が受容されたことなどによって、中国と西洋を相対化できる世代が育ってきたことが、その最も大きな要因と言えよう。

1870年代後半以降、③の段階に達した新型知識人として、鍾天緯(しょうてんい)、鄭観応(ていかんおう)らがいるが、ここで注目されるのは彼らの主張の中に、日清戦争後に梁啓超や魯迅らが行った国民性批判の原形が明確に見出せることである。

つまり、西洋を「夷狄」として貶めていたところから、西洋に「中華」とは別の、しかも中国より優位にある文明があることを認め、同時に世界の中心として考えていた中国を全面的に否定するような国民性批判の議論が生まれた背景には、

中国文明(中華)を唯一の文明とみる伝統的文明観からの転換があった、ということである。

そしてこの文明観の転換は、日清戦争での敗北によって広範な知識人が共有するものとなったのである。

1980年代以降の研究では、「日清戦争での敗北を契機として、中国の国民性批判が起こった」「国民性批判は、日清戦争後の知識人(梁啓超、魯迅ら)に特有のもの」と強調される傾向が強い。

しかし、中国近代における国民性批判の形成過程を明らかにするには、日清戦争だけをその要因とするのではなく、1870年代後半以降における文明観の転換の中で新型知識人に国民性批判の言説があらわれはじめたことを理解する必要があるだろう。

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