【山形大学附属博物館】特別展「山形と沖縄をつないだ琉球漢詩文」

   

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(山形大学附属博物館 特別展「山形と沖縄をつないだ琉球漢詩文」)

 

 

山形大学附属博物館と小白川図書館では、10月6日から11月14日まで、特別展「山形と沖縄をつないだ琉球漢詩文」を開催している。

郷土史家・伊佐早謙(いさはや・けん、1858年~1930年)が、大正13年(1924年)に沖縄から持ち帰った貴重な琉球関係資料に触れることができる。

第一会場(附属博物館)では、第二代沖縄県令となった上杉茂憲(うえすぎ・もちのり 米沢上杉藩最後の藩主、1844年~1917年)のコーナーが設けられ、茂憲の家族写真、県令として赴任した明治14年から同16年(1881年~1883年)の間に撮影された「首里城」内部の写真などのほか、

伊佐早の郷土史家や図書館人・漢詩人としての業績をまとめた年譜や、伊佐早が編纂した漢詩集や山形県史などが展示されている。

第二会場(小白川図書館)では、所蔵の林泉文庫(伊佐早が収集した和・漢の古典書籍などからなるコレクション)から、琉球に関連するほぼすべての資料を展示している。

山形大学附属図書館・新宮学館長(同大学人文社会科学部教授)によると、

沖縄戦でその多くが焼失した琉球王国の資料が山形に残ることとなったのは、歴史における偶然の産物であった。

 

明治初期、洋学ではなく漢学を学んだ伊佐早  少年期の学問形成が、沖縄での資料収集に影響することとなる

 

伊佐早家は米沢藩において、物品調達など藩主の日常雑務を担う御小納戸組(おこなんどぐみ)として仕えたが、

藩内の家格は決して高い地位にあったわけではなく、

伊佐早は、米沢の藩校として名高い「興譲館」には入らなかったようだ。

明治に入ると、全国の藩校では洋学が積極的に取り入れられ、従来の漢学が押しのけられていく。

「興譲館」でも教育方針の変化などから、提学(今で言う校長)の地位にあった片山弦斎が役職を退いたが、

当時少年であった伊佐早は、その片山に師事する。

つまり伊佐早は、明治維新後に隆盛を誇った洋学ではなく、漢詩文に象徴される漢学を片山から学んだ。

この少年期における学問形成が、のちの沖縄における伊佐早の調査活動に影響することとなる。

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沖縄の近代化を推進した上杉茂憲 その足跡を辿るため沖縄に赴いた伊佐早は、琉球の漢詩に出会った

 

上杉茂憲は沖縄県令として、沖縄の改革・近代化を推し進め、特に教育分野・人材育成における茂憲の功績は大きい。

茂憲は「近代化を推進した開明的な知事」として、沖縄では現在も高く評価されている。

上杉景勝から始まる米沢藩では、藩主の御年譜(その治世を編年体で記した記録)編纂の伝統があり、

茂憲が亡くなった後、彼の御年譜の編纂が始まる。

このとき、茂憲の事蹟調査のために沖縄に向かったのが伊佐早だった。

伊佐早が沖縄に赴いたのは大正13年(1924年)。

そこで伊佐早は、琉球の漢詩と出会った。

 

「江戸時代の各藩、特に米沢藩では藩士が漢詩を作る伝統が根付いていた。

漢詩を作るということは、武士にとって一種の教養であり、藩主の茂憲、また伊佐早も漢詩を作った。

とくに伊佐早は、二十歳で米沢藩ゆかりの漢詩を集めた『鶴城詩集』を編集するほどに精通していた。

 

琉球王国は、明治の初めころまで清(中国)と朝貢関係にあったから、

琉球から清に赴いた人たちは、現地の官僚と漢詩のやり取りをした。

つまり、琉球は漢詩の「本場」であったわけです。

中国でも、漢詩は知識人・官僚としての一番の嗜みであったから、

琉球に赴いた伊佐早は、琉球の人々が作った漢詩を見ておそらく強い衝撃を受けたのだと思います」(新宮館長)

 

琉球王国で中国との外交(朝貢)実務を担ったのは、今の福建省から移り住み、久米村(現在は那覇市久米)に定着した人々。

彼らは、中国人官僚と付き合うために漢詩の勉強をし、また漢詩集も作っていた。

明治4年(1871年)の廃藩置県で江戸時代以来の各藩は廃止された。

しかし琉球王国では、翌年琉球藩が新たに設置され、政府直轄とした。その7年後に琉球藩を廃して沖縄県が設置される。

この「琉球処分」で、沖縄は日本の枠組みの中に組み込まれていくこととなったが、

それに伴って、中国との朝貢関係を担った人々は職を失い、没落していった。

明治中期には、彼らが清に手紙を送って自分たちの窮状を訴え、清に助けを求める「琉球救国運動」も起こるが、

それも下火になっていく。

すると、それまで代々受け継がれてきた、中国との外交上必要な文書作成マニュアルなどを記した書物、また彼らが作った詩集の類は、

その価値を失うこととなった。

 

しかし、漢学を学び、漢詩に精通していた伊佐早は、時代の流れと逆行するかのように、それらの書物に価値を見出したのかも知れない。

伊佐早が沖縄を訪れた大正13年、米沢出身の建築家・伊東忠太は政府を動かして首里城を残した

 

伊佐早が沖縄に赴いた大正13年(1924年)2月から約半年年遅れて、同じ米沢出身の建築家・伊東忠太(1867年~1954年、東京帝国大学名誉教授・米沢市名誉市民第1号)が、首里城正殿の調査のため沖縄を訪れた。

伊東は、その年3月当時の内務省に要請し、首里城正殿の取り壊しを中止させた人物として有名だ。

 

「大正13年という年、米沢出身の2人が全く違う方向から沖縄に関心を寄せて、文化保存の役割を果たした。

伊佐早は琉球漢詩文を残し、伊東は首里城正殿を残した。

これまでの調査では、両者のつながりは分かっていませんが、

出身地以外にあまり共通点を持たない2人が、琉球の文化的遺産を現代に伝えるうえで大きな役割を果たしたということ自体、

非常に興味深いことだと思います」(新宮館長)。

 

山形の地に残されていた琉球関係資料  山形と沖縄をつないだ伊佐早の林泉文庫コレクション

戦後、山形大学附属図書館が所蔵していた林泉文庫のコレクション。

その中に眠っていた琉球に関する資料の存在を明らかにしたのは、

2013年6月のうるま市中央図書館の栄野川敦館長や鹿児島大学高津孝教授らの調査だ。

そのほとんどが沖縄戦で焼失し、現存するものも出尽くしたと見られていた琉球史に関する当時の資料。

このことは、沖縄でも大きな驚きをもって受け止められ、現地の新聞でも大きく取り上げられた。

 

少年期から漢学を学び、そして郷土史家・図書館人としての才覚を備えた伊佐早。

伊佐早とは異なり漢詩を学んでいない別の人物が米沢から沖縄に調査に赴いていたならば、

林泉文庫の中に貴重な琉球関係の資料が入ることはなかったのかも知れない。

 

今回の特別展では、山形と沖縄をつないだ伊佐早の足跡を初めて紹介した、貴重な資料が展示されている。

是非一度、足を運んでみては。

 

【 基本情報 】

【山形大学附属博物館・小白川図書館共催】特別展「山形と沖縄をつないだ琉球漢詩文」(入館無料)

第1会場 山形大学附属博物館(平日のみ)

開館時間 9:30~17:00

 

第2会場 山形大学小白川図書館(会期中無休)

開館時間 平日    8:15~21:00

土日祝日 11:00~18:00

 

【問い合わせ】

「山形大学附属博物館」

山形市小白川町1-4-12

Tel  023-628-4930

Fax   023-628-4668

E-mail hakukan@jm.kj.yamagata-u.ac.jp

 

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