【特集】戦争に翻弄された人々-酒田港強制連行事件-

      2017/10/02

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(出典:Pixabay)

 

昭和20年(1945年)の第二次世界大戦の終戦から、今年で72年が経った。

戦争中、多くの日本国民が海を渡って中国へと向かい、反対に中国国民が日本に連行され、それぞれが悲惨な運命を辿ることとなる。

満蒙開拓団として中国で終戦を迎え、置き去りになった残留孤児、そして日本に連行され強制労働を強いられた中国の人々だ。

しかし、戦後長い間、この2つの問題に社会の目が向けられることはなかった。

 

(取材に応じて頂いた、高橋幸喜さん)

(取材に応じて頂いた、高橋幸喜さん)

 

高橋幸喜(たかはし こうき)さんは、1935年(昭和10年)山形市に生まれた。

幼いころに戦争を経験し、今年11月で82歳を迎える。

高橋さんは、数十年にわたり、山形県における満蒙開拓団の歴史と帰国した孤児の現状、

山形県酒田市・酒田港における強制連行事件の実態などについて地道な調査を行い、

被害者救済のために尽力してきた。

また東北地方の歩兵連隊を中心とする、陸軍第36師団の当時の動きについても詳しい。

 

元軍人、日本に帰国した孤児、連行された中国人被害者などの当事者が高齢化し、

戦争に対する社会全体の記憶が薄れている今、高橋さんへの取材を通して、

改めて戦争がもたらした諸問題に焦点を当ててみたい。

 

独自の調査で判明した、酒田港での「中国人強制連行・強制労働事件」

 

1995年、戦後50年の年にして、酒田港(酒田市)での中国人強制連行の事実が分かりました。

これが、私の一つの出発点だったんです。

酒田港の中国人強制連行事件は、1944年から1945年に発生したものです。

 

昭和17年(1942年)11月の閣議決定で、国内の労働力不足を補うために、中国から労務者を移入するということが決まり(「華人労務者移入に関する件」)、

翌年の昭和18年から20年の初めころにかけて、全国で4万人もの中国人を日本に連行し、過酷な強制労働を強いました。

酒田港の事件もそのうちのひとつで、合計で338人が連行され、

1945年10月までに31人の中国人が命を落としました。

 

私は、当時の関係者に話を聞いて回りました。

酒田市の関係者によると、当時、中国では「苦力」(クーリー)と呼ばれる日雇いの労働者がおり、

その人たちが中国で仕事がなくなったために、酒田に来てもらって港で荷役労働をしてもらったと。

ただ、警察の資料などを見ると「連行されてきた」という話が出てきます。

 

彼らは、酒田警察署の特別高等警察(特高)によって監視されていた。

逃亡を防止するためです。

当時、その任務にあたっていた元特高の方を探して話を聞くなどして、強制連行の事実を確認していきました。

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私は事件の被害者のうちのひとり、壇蔭春さん(だん・いんしゅん、2011年没)と長く交流を続けました。

壇さんは、邢台(シンタイ、河北省南部の都市)の駅で拉致され、酒田に連行された方です。

この方も原告となって、山形地裁に裁判を起こしましたが、2011年に最高裁への上告が棄却されました。

 

今も何とか解決したいと思っていますが、酒田の場合は相手方企業(「酒田海陸運送」、元「酒田港湾運送」)が中小企業ですから、

なかなか容易ではないんですね。

三菱マテリアルで解決したのが、被害者1人あたり170万円の和解金でした。

酒田港の場合、例えば1人100万円の和解金としても、連行された中国人は338人いましたから、

全員を対象とすれば、和解金の総額だけで3億円をゆうに超えます。

※ 2016年6月1日、太平洋戦争中に日本国内の炭鉱などで過酷な労働を強いられたとして中国人の元労働者と遺族が損害賠償を求めていた裁判で、大手金属メーカーの「三菱マテリアル」が歴史的責任を認めて元労働者に謝罪し、ひとり当たりおよそ170万円を支払うことで和解。最終的には4000人近くが和解の対象になった。

 

(壇蔭春さんが高橋さんに宛てた書。「古い友人に会うと、心が元気になる」という意味。筆者撮影)

 

 

壇蔭春さんは生前、「金の問題ではない。私にとって、酒田港での事件は思い出したくないことだ。しかし、この真実を若い人に

伝え、平和な環境を作りたい。そのためにやっている」と何度も話していた。

私の自宅に何度も泊まりましたが、非常に品格のある人でした。

 

「将来に負の遺産を残さない」 全国的な連携・問題の和解解決を進め、国を動かす

 

酒田港の裁判については、仙台高裁の判決が生きています。

判決では、「日中共同声明第5項によって、裁判上の訴求権は認められない」としました。

※ 1972年(昭和47年)9月、北京を訪問した田中角栄総理と周恩来首相との間で交わされた日中共同声明。その第5項には「中華人民共和国政府は、両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄する」と明記されている。

しかし、不法行為を詳細に認定、つまり強制連行、強制労働の悲惨な事実などが詳しく認められました。

同時に、個人の請求権の存在も認めた上で、

「被害者が受けた深刻な被害、その救済のために関係者が努力すべき」

という文言が判決文の中に入った。

他の地域の裁判では、裁判長意見として「被害者救済のための関係者の努力」という文言が入っていますが、

判決文の中にそれが加えられたというのは、ひとつの成果だと考えています。

※ 2009年11月21日の仙台高裁判決では、「本件被害者らは強制労働等により極めて大きな精神的・肉体的苦痛を被ったことが明らかになったというべきであるが,その被害者らに対して任意の被害救済が図られることが望ましく,これに向けた関係者の真撃な努力が強く期待されるところである」との付言がなされた。

 

私は、去年と今年の2回、新潟県十日町市で行われた「西松信濃川事件」の追悼式典に参加しましたが、

この事件では、加害企業である西松建設と被害者の間で和解が成立し、

十日町市にはその記念碑が建てられています。

 

和解にあたっては、償い金(賠償金)の大小ではなく、まず加害企業が強制連行の歴史的責任を認めて謝罪すること、

そして、慰霊碑・記念碑の建立などで被害者と合意することが必要です。

 

特に酒田の場合、港湾で起こった事件ですから、今後の日中間の交易の発展、また両国の平和友好の発展を考えるなら、

この負の遺産を将来に残さず、早期に解決すべきです。

 

まず、戦時中に全国で強制連行・強制労働の事実があった、ということを世間に知ってもらって、

全国的な連携を図りながら、一つひとつ問題を解決していく。

そして国を動かすことが大事だと考えています。

 

同時に、強制連行の問題を和解解決に導いていくことは、

これから平和な民主主義の国を築くための、日本自らに課せられた課題であるとも言えるでしょう。

 

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