【特集】戦争に翻弄された人々-山形県・満蒙開拓団-

      2017/09/29

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(出典:pixabay)

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昭和20年(1945年)の第二次世界大戦の終戦から、今年で72年が経った。

戦争中、多くの日本国民が海を渡って中国へと向かい、反対に中国国民が日本に連行され、それぞれが悲惨な運命を辿ることとなる。

満蒙開拓団として中国で終戦を迎え、置き去りになった残留孤児、そして日本に連行され強制労働を強いられた中国の人々だ。

しかし、戦後長い間、この2つの問題に社会の目が向けられることはなかった。

 

(取材に応じて頂いた、高橋幸喜さん)

(取材に応じて頂いた、高橋幸喜さん)

 

山形市に住む高橋幸喜(たかはし こうき)さんは、1935年(昭和10年)山形市に生まれた。

幼いころに戦争を経験し、今年11月で82歳を迎える。

高橋さんは、数十年にわたり、山形県における満蒙開拓団の歴史と帰国した孤児の現状、

山形県酒田市・酒田港における強制連行事件の実態などについて地道な調査を行い、

被害者救済のために尽力してきた。

また東北地方の歩兵連隊を中心とする、陸軍第36師団の当時の動きについても詳しい。

 

元軍人、日本に帰国した孤児、連行された中国人被害者などの当事者が高齢化し、

戦争に対する社会全体の記憶が薄れている今、高橋さんへの取材を通して、

改めて戦争がもたらした諸問題に焦点を当ててみたい。

 

抑圧された戦時中の雰囲気 「敗戦の年、まだ10歳だった」

(B-29による爆撃の様子 出典:wikipedia)

(B-29による爆撃の様子 出典:wikipedia)

 

1945年の敗戦の年、私はまだ10歳でした。

私が覚えているのは、社会の閉塞感、抑圧的な空気。

明るいパーッとした生活ではなくて、やっぱり戦争の暗い印象が強いですね。

神町飛行場(現東根市)への空襲(昭和20年8月9日)の時は、高い桜の木の上に登って見ていて、

B29だったか、米軍の飛行機がダァーっと連なって頭の上を飛んできた。

それは恐ろしかったですよ。

あとは、防空壕掘りを手伝わされたり。

とにかく毎日の生活が大変で、自由な雰囲気はなかった。

 

特に農村部では、封建的な仕組みの中ですべてが動いていて、

当時の社会の空気というのは、非常に重たかったですね。

戦後、新憲法ができて、そういう生活の中にだんだんと解放感が出てきたように思います。

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東北、長野など寒冷地からの入植者が多かった「満蒙開拓団」

(日本軍による満洲経営の中核となった「南満州鉄道」(満鉄)の車両 出典:wikipedia

(日本軍による満洲経営の中核となった「南満州鉄道」(満鉄)の車両 出典:wikipedia)

 

「満蒙開拓団」については、特に寒冷地、つまり東北地方や長野県などが多かった。

長野は3万人以上と最多、山形は長野に次いで2番目に多い、約1万7000人が満州に渡りました。

寒冷地が主な対象となった理由は、凶作、大恐慌による絹糸の暴落などで大きな影響を受ける地域だったからでしょう。

 

1932年、第一次武装移民(試験移民とも呼ばれる)が、満州の「弥栄村」(いやさかむら)に入植。

満蒙開拓の先駆けとなった村です。

 

1931年、日本軍は満州事変をきかっけに中国の満蒙を武力で占領し、翌年には満州国を建国した。

「満州を植民地支配するためにはどうするか」ということで、関東軍の中にも開拓団という発想が生まれます。

第一次武装移民は、関東軍による満州国の軍事的な支配において、その「先兵」としての意味合いが非常に強かった。

 

1932年(昭和7年)、「五・一五事件」(武装した海軍の青年将校たちが総理大臣官邸に乱入し、内閣総理大臣犬養毅を殺害した事件)が起きた。

そのころ、加藤完治(後述)らがすでに満州への農民の移住を叫んでいたが、事件が起こるまでは内閣自体は動かなかった。

しかし、この事件が、政党政治から軍部による政治へと移って行くきっかけなり、同年の第一次試験移民へとつながるわけです。

 

この試験移民は、武装移民としての色合いが強く、主にソ連国境の村に入植します。

在郷軍人を中心とした「弥栄(いやさか)第一次」から始まり、最終的に一般の農民なども含めた試験移民の入植が1936年ころまで続きますが、この第一次から、山形県の農民も入っていたのです。

武装というだけあって、試験移民は、1戸ごとに機関銃、迫撃砲などを持たされます。

試験移民という名前だけれども、与えられた武器を見ても、これはただ事ではなかった。

一般開拓団が「1戸あたり1丁」の銃が与えられていたのと比べると、試験移民の軍事的意味合いがどれだけ強かったのかが分かります。

 

軍の構想に合致した「農本主義」が、山形の農民を満州へと駆り立てた

(加藤 完治(1884年~1967年)。関東軍将校・東宮鉄男とともに満蒙開拓移民を推進した。剣道家でもあった。 出典:wikipedia)

(加藤 完治(1884年~1967年)。関東軍将校・東宮鉄男とともに満蒙開拓移民を推進。剣道家でもあった。 出典:wikipedia)

 

「農業生産と農村共同体こそが、国家と民衆存立の基礎である」という、いわゆる「農本主義」。

当時、開拓団の人々に強い影響を与えたのは、単なる「農本主義」ではなく、それは天皇思想や日本神話に固められたものでした。

つまり、「農本主義」が軍部、関東軍の構想と合わさって、特に農村部から満州への入植が推し進められたのです。

 

山形県に来ていた加藤完治(かとう・かんじ、教育者、剣道家)は、東大出身で、天皇制に基づく「農本主義」を説いた人物です。

大正時代、山形県が「自治講習所」を開設し、加藤はその初代所長になった。

講習所の目的は、「山形県の各自治体の中核となる人材を養成する」ことにありました。

ちょうど、今の山形県立山形工業高校の近くに建てられた。

このほか、北村山郡にあった大高根村(おおたかねむら)の山を拓いて、そこに自治講習所の施設を作って、

県内の若い人たちを集めて「教育」するわけです。

そこに来ていた若い青年が、「加藤先生、私には家に帰っても、農業をやる土地がありません」と言う。

大体、農家の次男、三男です。

加藤は、「ブラジル、アメリカなどに開拓団はあるが、今は満州だ。満州に開拓団を送ることが大事である」

と青年たちに教え込んだ。

それが、山形からの満蒙開拓団に結びついていくわけです。

 

県の指導で、農家一戸あたりで採算が採れる農地面積が、それぞれの地域ごとに設定されます。

農地面積から適正な農家戸数が決められると、それを超える戸数は「過剰農家」とされた。

その上で加藤は、「日本は土地が足りない。過剰農家は、全て満州へ」

といった具合に、山形の農民たちを満州へと駆り立てたのです。

 

冷静に考えれば、加藤の主張は、小作農のシステムなど、当時の農業体制における問題を正確に捉えたものではなく、

ただ単に農地面積で全てを割り切ってしまうものでした。

 

しかし山形でも、段々と加藤の教えに心酔する者が出てきます。

彼らは、加藤が組織した「皇国農民団」(こうこくのうみんだん)に加入していった。

特に庄内地方では、加藤の思想に心酔した農民らが、自分たちでも「皇国農民団」を組織し、

「加藤完治先生の言う通り」ということで、開拓団送出にまい進していった。

 

庄内全部で、過剰農家は8000戸とされました。

加藤は「庄内の過剰農家を満州に送り、我が鶴岡の『大庄内郷』を満州に作ろうではないか!」と大きな構想を語った。

その思想に狂った者たちによる運動も起きるほどでした。

 

山形からの満蒙開拓団は、最初の頃は国の目標に近い数字の入植が実現していましたが、

徐々に上手くいかなくなり、それでも何とか送り出そうとして、あらゆる翼賛勢力を動員して入植を進めようとした。

その努力たるや、凄まじいものがありました。

結局、山形県からは3000戸ほど、約1万7千人が満州に入植、結果、半分くらいが日本に帰ってこなかったわけです。

 

学校・教師が生徒に奨励した「青少年義勇軍」 これは、少年たちの戦争動員に他ならなかった

(第二次世界大戦、出征前の日本軍少年兵たち 出典:wikipedia)

(第二次世界大戦、出征前の日本軍少年兵たち 出典:wikipedia)

 

1938年からは、「青少年義勇軍」が満州へと送られます。

尋常高等小学校卒業と同時に訓練に行ったので、14歳くらいが一番多かった。

山形県から満州に送り出された青少年は、3800人とも4000人とも言われています。

 

これらの少年は、加藤完治が茨城県水戸市に開設した訓練所(加藤が校長を務めた国民高等学校に隣接していた)で訓練を受けた後に渡満しました。

彼らが満州に行くと、関東軍から「軍は関東軍以外に認めない」という注文が付いて、

現地では「青年義勇隊」という名前に変わる。

そこで3年間、訓練を受けて開拓団に移行したわけです。

 

青少年義勇軍への加入については、特に学校の先生など、教育機関全体が力を入れていました。

当時、国として軍国主義教育を進めていたので、教育と開拓団の問題を結び付けたのです。

教員らに対しても、割り当てというか、「この学校から何人送り出す」という数値目標があったといいます。

 

しかし、14、15歳の少年を戦争に動員する、このやり方は非常に良くない。

彼らのほとんどは、貧しい農家の子供たち。

学校の先生から勧められる。

そして全国で「満州へ満州へ」「満州に行けば、10町歩20町歩の土地がもらえる」という大宣伝。

そういう宣伝が、映画から小説から、あらゆる媒体を使ってやられていた。

山形も含め、日本全体が軍国主義、ファシズム一色で染められていく、そういう時代でした。

結果として、真っ先に満州に送られたのが、東北6県、長野県などの寒冷地の農民、

そして年端もいかない少年達だったわけです。

 

耕された土地を、タダ同然で手に入れる植民地支配 しかし、現地住民から恨みを買うことは必定だった

(吉林省長春市にあった関東軍の司令部 出典:wikipedia)

(吉林省長春市にあった関東軍の司令部 出典:wikipedia)

 

私が生まれた村は、南村山郡柏倉門伝村という村でした。

門伝村からは、瀋陽の近くにある撫順の上、吉林市の領分に入る「板橙河」(ばんとうが)という地域に入植します。

河北省、山東省から出稼ぎのような形で、既に中国の人たちが耕していた土地を、タダ同然でもらい受けた。

驚くことに、元々土地を持っていた現地の住民が、逆に開拓団の下で「耕作させてもらう」。

つまり、小作になるようなものですね。

 

これは満州全体で言えることだが、多くの部分が、現地の人たちの土地をただ同然で手に入れていた。

それがやっぱり、中国人の「恨み」として残るわけです。

植民地支配というのは、どうやったって現地の恨みを買うことになる。

 

ある資料の中に、山形から満州に渡った元青少年義勇軍の方の話が書いてあります。

その方は訓練後、開拓団となって山を含む広い土地をもらった。

満州は寒いので、冬は薪が欠かせない。

現地の満州人たちが山で薪を取ってくる、そこへ、開拓団が山の下で待っていて、

「これは俺たちの山だ。その薪も俺たちのものだから寄越せ」と。

現地住民も生活が懸かっていますから、何とかやり過ごしてもらおうと、頭を地べたに付けて懇願したそうです。

けれども聞き入れてもらえず、最後は「わかった」と言って、薪を置いてタッタッタッと山を駆け降りていった。

その方はこの様子を見ていて、「これはただ事じゃない。中国には負ける」と直感したそうです。

 

8月9日のソ連軍の侵攻 そして、入植者たちの「死の逃避行」が始まる

(1945年2月、クリミア半島・ヤルタで行われた会談での米英ソ各首脳、右がソ連首相 ヨシフ・スターリン)

(1945年2月、クリミア半島で行われたヤルタ会談での米英ソ各首脳、右がソ連首相 ヨシフ・スターリン)

 

1945年8月9日、米英ソのヤルタ協定(同年2月)のもとで、ソ連軍が日本との中立条約を破って満州に侵攻。

ここから、入植者たちの「死の逃避行」が始まりました。

大人の男たちが根こそぎ軍隊に動員され、残っていたのは老人、婦女子、そして子供ばかり。

無抵抗の避難民に対するソ連軍の機関銃掃射、現地住民からも襲撃を受け、多くの命が失われました。

 

庄内から入植した人たちも、南へ向かう道すがら、

「10歳以下、60歳以上は皆、死んでもらう」

と家族、仲間を殺しあうこともあった。

また、絶望の中、集団自決の道を選んだ開拓団も多いです。

 

ある集団では「赤ん坊の泣き声で現地住民に見つかると、皆殺される」からと、

それまで抱いて連れてきた赤ちゃんを川に捨て、山の中に置き去りにし、

大人たちが幼い子供らを銃で撃ったといいます。

その集団にいた、全ての赤ちゃんと幼児です。

命をかけて逃げる集団の決定というのは、とても厳しいものだった。

しかし、その決定に従う他なかった母親の気持ちは、どんなだったでしょうか。

 

逃げた人の中にはソ連軍に捕まり、捕虜となった人たちも大勢いましたが、

収容所では寒さと飢えで、大人も子供も、毎日のように人が死ぬ。

それは惨憺たるものでした。

 

鶴岡市では、満州から戻ることができた人たちが、あまりにも惨劇がひどかったことから、

「もう二度と、あの過ちを繰り返すまい」「戦争はだめだ、平和を作らなければいけない」

ということで、善宝寺というお寺に親子地蔵尊を作った。

戦後、満州からの引き揚げの混乱で生き別れた親兄弟、亡くなった人々の魂を供養するためです。

 

一方で、現地の中国人に命を救われた例も多くあるのも事実です。

これは非常に大事な問題。

やっぱり、これが日本だったらどうだろうと。

仮に、日本に攻め入ってきた敵国の子供を引き取って、育てることができるか。

現地では、長い間、労働力として酷使された人もいるし、穀物と引き換えに売られた人もいる。

 

しかし、多くの子供たちは命を救われ、中国人の養父母に育てられた。

これは、まれにみる国際的友愛に満ちたことだったと言えます。

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