【特集】「北京」が首都であり続ける理由(中)

      2017/11/02

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(夕刻の北京市内の様子。:https://pixabay.com/)

 

【特集】「北京」が首都であり続ける理由

 

2017年4月1日、中国政府がある計画を発表した。

 

河北省保定市に「河北雄安新区」を設立して経済開発を行い、同時に北京にある非首都機能の一部を移転するという計画である。

「共産党中央による千年の大計」「重大な歴史的戦略プロジェクト」との触れ込みで報じられるなど、まさに国家的な事業という位置付けだ。

 

この計画については、北京が抱える深刻な「大都市病」の解消や、華北地域(中国北部)の景気刺激策など様々な見方をされているが、俯瞰的に見れば、あくまで「首都・北京」の維持を大前提 とした計画と見ることができるだろう。

 

では、北京が首都であり続けるのは理由は何なのか。

 

今回、中国を中心とする近世東アジア地域における「都城史」研究の第一人者・山形大学人文社会科学部の新宮学教授から、中国における「首都・北京」の形成過程とその歴史的性格、また河北省保定市「雄安新区」設立の狙いなどについて話を聞いた。

新宮 学(あらみや まなぶ)

あらみや先生

 

山形大学人文社会科学部教授。

1955年山形県生まれ。

1978年 東北大学文学部(文学研究科東洋史学専攻)卒業後、1983年 同大学院文学研究科博士課程単位取得退学。国士館大学文学部講師(1983年4月 ~ 1988年9月)、1988年山形大学人文学部助教授。2001年より現職。
このほか、中国の北京師範大学歴史学部留学(1994年9月 ~ 1995年7月)、慶應義塾大学地域研究センター研究員(1997年4月 ~ 1999年3月)、国際日本文化研究センター研究員(2007年4月 ~ 2008年3月)を務めた。
15~18世紀の中国近世社会史を主たる研究領域とするが、近年は、首都北京の形成過程と都市構造の解明を進めている。同時に、都城制や日明交渉を手がかりに北京を中心とした近世東アジア世界の歴史的展開をも研究課題としている。
主な著書に、

『北京遷都の研究―近世中国の首都移転―』(汲古書院、2004年)、『明清都市商業史の研究』(汲古書院、2017年)のほか、編著に『近世東アジア比較都城史の諸相』(白帝社、2014年)
などがある。

(以下、インタビュー)

 

 

1421年の「北京遷都」とは?

(豊かな水をたたえる淮河、出典:ウィキペディア)

 

明(1368年 - 1644年)の初代皇帝・洪武帝(朱元璋)は、もともと中国東南部、黄河と長江の間を流れる淮河(わいが)のほとりで生まれた。
明を打ち立てて都をどこに置くかとなった時、地理的に、北に行くことも南に行くこともできたが、北にはモンゴルの元朝がまだ存在していたため、洪武帝は南に向かい、南京を都とした。

実は、統一王朝で南(南京)に都を置いたというのは、明朝が初めてである。

南京は三国時代の都でもあり、また経済的に豊かな蘇州などに近く、戦略的に重要な拠点であった。

 

明朝は元を北へ追いやって、中国全土を統一する。

その後、皇位継承をめぐる問題などを経て、3代目の皇帝・永楽帝が、南京から北京に都を移した。

これが、1421年の「北京遷都」である。

 

北京に都や副都を置いたのは、それまで、遼・金・元などの北方系の民族による王朝であったが、「漢民族による統一王朝が北京に都を置いた」というのも、明(永楽帝)が初めてであった。

永楽帝は、中国の経済的な重心に位置する南京を離れ、北へ追いやったはずの元と同じように北京(元の時代は「大都」と呼ばれた)に都を置き、北から中国を統治していくのである。

結果的に見れば、「漢民族がモンゴルのやり方を受け継いだ」とも言えるだろう。

 

もし、永楽帝による「北京遷都」がなく、明が南京に都を置いたままであったならば、おそらくもっと小さな中国、より漢族的な国家になっていた可能性がある。

 

元、つまりモンゴルが、大都(北京)に都を置いて、北方の遊牧・狩猟民族を含めた国家を作ったというのは、地理的に言っても違和感なく、理解しやすい選択である。

ところが、漢民族である明の永楽帝は、南京から北京に都を移して、南も北も含めた中国を治めていく道を選んだ。

永楽帝は、モンゴルが作り上げた大きな中国、つまり「拡大された中華世界」という夢から、逃れられなかったのだ。

 

「北京遷都」以後、中国の統治のあり方はどう変わったのか?

(南京市内にある孔子廟、市内有数の歓楽街でもある。出典:https://pixabay.com/ja/%E5%8D%97%E4%BA%AC-%E7%A7%A6-%E5%AD%94%E5%AD%90%E5%BB%9F-1373206/)

 

永楽帝による「北京遷都」は、

「政治的な中心(北京)と、経済的な重心(南京)の分離」

を意味する。

 

私は、永楽帝が形作ったこの統治形態を

「北京システム」

と呼んでいる。

このシステムは、単に政治の中心と経済の重心を距離的に分離させただけではない。

 

政治=国家(権力)、経済=社会(民衆)と見るならば、むしろ「北京システム」の特徴は、

「国家と社会の乖離」

を生んだ点にあるのだ。

 

我々日本人からすれば、現在の中国に対して「国家と社会が乖離している」という感覚を持つかも知れない。

民衆が願っていることと、国家が考えていることの間で乖離があるのでは、という感覚だ。

例えば、日本の場合、明治以後狭い国土の中で政治と経済との一極集中が進められた結果、窮屈さもあるが、国家と社会がそれなりにリンクしている(ただし、これは近代の150年ほどの話で、東日本大震災は、この一極集中が脆さを抱えていることを露呈した点は忘れてならない)。

 

他方、韓国の場合は、両者の関係が更に密接だ。

先の大統領のスキャンダルとそれに続く大統領選挙を見ればわかるように、国家と社会の結びつきは日本のそれよりも非常に強い。

 

一方、中国はどうだろうか。

日本と中国の外交関係がどんなに悪化しても、締め付けが緩むと、中国の人々はどんどんと日本にやってくる。

国がどういう方向を向いているのかは、民衆の行動とは別ものなのである。

つまり、明朝・永楽帝による「北京遷都」は、「国家と社会の乖離」を特徴とする、中国近世社会の枠組みの完成を意味していたのだ。

 

(今もなお拡大を続ける巨大都市・上海。出典:https://pixabay.com/ja/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%B3-%E8%B6%85%E9%AB%98%E5%B1%A4%E3%83%93%E3%83%AB-outlook%E3%81%AE-%E9%AB%98%E5%B1%A4%E3%83%93%E3%83%AB-%E9%83%BD%E5%B8%82%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E7%8F%BE%E5%A0%B4-1028963/)

 

また、政治と経済を距離的に分離したことにも、国家統治における意味を見いだせるだろう。

 

日本にいる我々の感覚からすれば、政治と経済の中心を一致させた方が、より近代的な都市や国家である、と考えるかもしれない。

例えるなら、江戸時代、幕府は江戸に、「天下の台所」たる経済的中心は上方に、そして朝廷は京都にあったものが、近代になって東京に集中した。

この一極集中は、比較的小さな国家にとって機能的である。

 

しかし、広大な領土と多様な要素を持つ国家にとっては、むしろ、いろいろな機能を分散して置いた方が、大きなまとまりを維持しやすいという側面がある。

人口や領土などのスケールが著しく大きい場合、一つにまとめるのは物理的な限界もあるだろう。

一極集中型の首都というのは、その国のスケールなど様々な側面で見た場合、歴史的には必ずしも合理的ではないのだ。

 

逆説的ではあるが、「政治」「経済」などの役割を与えられた中心がそれぞれの役割を逸脱することは、政権の不安定化を招く可能性も孕んでいる。

例えば今の上海などを見ても、経済的にはある程度の裁量と自由が与えられ、海外から資本や利益を吸収している。

しかし、いくら経済発展したとしても、北京が政治的機能までを上海に譲ることはない。

北京と上海、どちらかに政治と経済を一致させた場合、国家の安定性はかえって失われることも考えられるのだ。

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「北京遷都」と「北辺防衛」との関係は?

(チンギス・ハンの孫であるクビライが興した元は、中国とモンゴル高原を中心とする広大な領土を支配した。出典:wikipedia)

 

中国では、近世以降も北方系の異民族の侵入に悩まされ続けた。

永楽帝は、それらの脅威に対抗する「北辺防衛」だけではなくて、何とかして彼らを統合しようという考えを持っていた。

中華と夷狄(いてき、古代中国で中華に対して四方に居住していた異民族に対する総称)の統合。

 

つまり、「華夷一統」(かいいっとう)の実現である。

 

北京は、農耕地域と遊牧・狩猟地域の境界線上に位置する。
「境界都市」である北京への遷都は、永楽帝がめざした「華夷一統」の実現に、より現実味を与えることとなった。

 

南京ではなく北京に都を置くことで、「多民族からなる中国」を維持しやすくなる。

先ほども述べたように、例えば、南京に都があった場合、どうしても漢民族的な中国にならざるを得ず、それでは「拡大された中国」を維持するのは困難だ。

 

モンゴル・元朝の時代に広がった中華世界の継承、そして「華夷一統」によってできあがる世界は、宮崎市定氏(戦後日本を代表する東洋史学者、1995年没)の言う「東亜共同体」とも言い換えることができる。

 

永楽帝による「モンゴル親征」(親征:皇帝自ら遠征に出ること)、永楽年間に行われた鄭和による南海遠征、安南出兵、亦失哈(イシハ)のシベリア探検なども、こうした「拡大された中華世界の継承」という理念の具体化をめざしたものであったと言えよう。

 

「国家と社会の乖離」が、その後の中国社会に与えた影響は?

(河北省秦皇島市にある要塞「山海関」は、渤海湾に臨む「万里の長城」の東端。古代から満州族に対する防備の要衝だった。出典:wikipedia)

 

明が滅び、清朝(1616年 ‐1912年)が新たに中国を支配する段階において、「北京遷都」(永楽遷都)による「国家と社会の乖離」を特徴する中国近世社会の枠組みが、既にできあがっていた。

 

清朝の成立は、漢民族が圧倒的な割合を占める中国社会が、少数の満州族によって統治されるという意味合いを持っていた。

満州人たちは、山海関を越えて北京に入ってくる前に、まずモンゴルを押さえた。
つまり、満州人とモンゴルが一緒になって北京に入ってきたので、彼らは最初から多民族国家であったのだ。

 

満州族によって中国が征服されると、辮髪(べんぱつ。男子が頭髪を剃り、後頭部だけを長く伸ばして編み、背後に長く垂らす髪型のこと。北方狩猟民である女真(満州人)の風俗であった)を強制したので、確かにそれに対する漢民族の反発も一部ではあったが、大局的に見れば、大きな混乱もなく、清朝の支配が確立する。
これは、「国家と社会が乖離している」という、中国社会の特徴が作用した結果とも言えよう。

 

つまり、中国の民衆は、経済システムや法律などの「社会」がさほど変わらなければ、権力の交代を受容してきたのである。

中国の歴史を概観すると、幾度にもわたって権力がドラスティックに変わってきた。

この中国社会の特徴は、近現代に入って、国民党から共産党に権力が移った段階においても、同じように説明できると考える。

 

時の権力者が目指した「北京」 そこに何があったのか?

(明・清の歴代皇帝がその住まいとした「紫禁城」。豪壮華麗なかつての宮殿は、現在「故宮博物館」として多くの観光客を魅了する。出典:wikipedia)

 

これまで述べてきたように、北京に都を置いて国家を統治したのは、遼、金、元や永楽帝以降の明、清などがある。

 

それぞれの王朝による「遷都」という点に注目すると、これは北方系の民族だけでなく漢族を含めて言えることだが、彼らはまず、それぞれの根拠地で政権を樹立する。
その余勢を駆って現在の北京にまで駆け上り、そこに政治的中心を移す過程である、と言い換えることさえできるかも知れない。

例えば、清朝(満州族)であれば、瀋陽(現在の遼寧省の省都)が以前の都であって、そこで既に「皇帝」を名乗っていた。

そのあと、山海関を越えて北京に入り、明に代わって彼らが全中国を支配することになる。

 

この一連の動きは、例えば日本の歴史の中で、戦国時代に有力な武将たちが先を争って京都に上洛しようとしたことに似ている。

織田信長もそうで、戦を重ねて権力を握ったが、権威はまだなかった。

京都には足利将軍、さらには「帝」がいる朝廷、つまり国を統べる者の正統性をもつ権威が存在したのだ。

だから彼らは、権力を握った後に京都に入り、征夷大将軍や関白といった役職を朝廷から与えられ、権威をも得ようとしたのである。

 

しかし中国の場合、北京に入る前に自ら「皇帝」を名乗っているわけで、もう既に、権力と権威を握っていた。

それなのに、北京にやってくるのである。

 

では、近世中国の北京には何があったのか。

 

実はそこには、もはや新たに獲られる権力や権威はなかった。

 

北京にあったのは、中華と夷狄の両世界に広がった「拡大された中華世界に君臨できる」という、その都がもつ「地政学的な重要性・優位性」であったのだ 。
(下)に続く

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