【特集】「北京」が首都であり続ける理由(上)

      2017/11/01

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(北京市内にある「天安門広場」、出典https://pixabay.com/ja/%E5%8C%97%E4%BA%AC-%E5%A4%A9%E5%AE%89%E9%96%80%E5%BA%83%E5%A0%B4-%E5%A3%AE%E5%A4%A7%E3%81%A7%E3%81%99-1430436/)

 

【特集】「北京」が首都であり続ける理由

 

2017年4月1日、中国政府がある計画を発表した。

 

河北省保定市に「河北雄安新区」を設立して経済開発を行い、同時に北京にある非首都機能の一部を移転するという計画である。

「共産党中央による千年の大計」「重大な歴史的戦略プロジェクト」との触れ込みで報じられるなど、まさに国家的な事業という位置付けだ。

 

この計画については、北京が抱える深刻な「大都市病」の解消や、華北地域(中国北部)の景気刺激策など様々な見方をされているが、俯瞰的に見れば、あくまで「首都・北京」の維持を大前提 とした計画と見ることができるだろう。

 

では、北京が首都であり続ける理由は何なのか。

 

今回、中国を中心とする近世東アジア地域における「都城史」研究の第一人者・山形大学人文社会科学部の新宮学教授から、中国における「首都・北京」の形成過程とその歴史的性格、また河北省保定市「雄安新区」設立の狙いなどについて話を聞いた。

新宮 学(あらみや まなぶ)

あらみや先生

 

山形大学人文社会科学部教授。

1955年山形県生まれ。

1978年 東北大学文学部(文学研究科東洋史学専攻)卒業後、1983年 同大学院文学研究科博士課程単位取得退学。国士館大学文学部講師(1983年4月 ~ 1988年9月)、1988年山形大学人文学部助教授。2001年より現職。
このほか、中国の北京師範大学歴史学部留学(1994年9月 ~ 1995年7月)、慶應義塾大学地域研究センター研究員(1997年4月 ~ 1999年3月)、国際日本文化研究センター研究員(2007年4月 ~ 2008年3月)を務めた。
15~18世紀の中国近世社会史を主たる研究領域とするが、近年は、首都北京の形成過程と都市構造の解明を進めている。同時に、都城制や日明交渉を手がかりに北京を中心とした近世東アジア世界の歴史的展開をも研究課題としている。
主な著書に、

『北京遷都の研究―近世中国の首都移転―』(汲古書院、2004年)、『明清都市商業史の研究』(汲古書院、2017年)のほか、編著に『近世東アジア比較都城史の諸相』(白帝社、2014年)
などがある。

(以下、インタビュー)

 

中国における「都城」とは?

(西安にある巨大な古城壁、出典:http://kawadouro.com/Asia/China/Seian/SeianCastleWall.html)

中国では、国都(「京師」とも呼ばれる)を頂点として、複数からなる副都、さらには省・府・州・県に至るヒエラルキーにおいて、それぞれの段階で政治的な中心となった「城壁で囲まれた行政都市」が存在した。
私は、それらを「都城」として位置付けている。

あえて、末端の鎮・市を除いたのは、あくまで「行政機能を持っているかどうか」という事実を重視したためである。

城壁で囲まれた都市は、欧州や中国などユーラシア大陸ではスタンダードであるが、日本ではむしろ、そのような都市は少ない。

その意味では、東アジア地域における「都城」の歴史に注目すると、日本の独自性も浮かび上がってくるわけである。

 

西欧などとの比較において、中国における都市の特徴点は?

(ヨーロッパの代表的な自治都市であった、イタリア・フィレンツェの街並み。この美しい都市も、古くから城壁に囲まれていた。出典:https://pixabay.com/ja/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%84%E3%82%A7-%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2-%E7%A9%BA-%E6%95%99%E4%BC%9A-%E3%83%88%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%8A-%E3%83%91%E3%83%8E%E3%83%A9%E3%83%9E-%E5%A1%94-%E9%9B%B2-1655830/)

(ヨーロッパの代表的な自治都市であった、イタリア・フィレンツェの街並み。この美しい都市も、古くから城壁に囲まれていた。出典:https://pixabay.com/)

 

「都城」研究は、経済・社会的な機能から生じる都市問題ではなくて、あくまで「政治的・行政的中心」の機能から生じる問題を重視している。
そのため「都市一般」というよりも、「首都」(※)の問題、またそれに連なるヒエラルキーの問題を主に考察する。

(※)本来「首都」とは、近代国民国家において、政治権力の中心としての中央政府が置かれた都市を指すため、中国における「首都」の誕生は、厳密に言えば中華民国の成立後、南京を正式な首都と定めた1927年となる。そのため本文中では、それ以前の中央政府の所在地を「都」として区別する。

西欧の都市研究で言えば、ドイツの社会学者マックス・ウェーバーの「自治都市」概念が有名だが、これは「市民が作る都市」というイメージで捉えられるだろう。

 

しかし、特に東アジアにおいては、「権力によって都市が作られる」という性格が強く見られた (藤田弘夫『都市と権力――飢餓と飽食の歴史社会学――』(創文社・1991年)参照)。

 

例えば、ヨーロッパにおける「自治都市」の主人公は「ギルド」(職人など同業者による自治組織)であった。

このような商人らによる同業組織は、中国においては「行」(こう)と呼ばれたが、歴史的に見て、中国の「行」はヨーロッパの「ギルド」とは性格が異なる。

中国における「行」は、権力が必要とした時に、権力が上から組織したものである。

中国では、ヨーロッパとは全く異なる方向性から都市が作られた。

中国の都市における一番の「顧客」は権力であって、権力が何かを欲した時、そのために商人を組織したのである。

以上のことからも分かるように、中国の都市の商工業者を研究しても、ヨーロッパのような自治都市には繋がらない。

 

そのため、「自治都市」ではない非西欧型の近代都市(開発独裁型の都市)や歴史的都市の役割を考える上では、一般的な都市研究よりも、都城研究からのアプローチの方がより実態に迫ることができる。

同時に、西欧と東アジアの都市研究の比較を通じて、中国特有の側面として、権力の問題を押さえて都市研究をする必要があることが浮き彫りとなったのだ。

中国における都市の歴史を見ていく場合、単なる都市研究ではない、またヨーロッパの普遍性に近づけるような研究ではなく、むしろ中国の独特な在り方というものを意識する必要がある。

 

なお、中国では、時代によって都が2つ(両京)あったり、5つの都(五京)が存在した時もあった。

中国では、「四方」のほかに「五方」(ごほう)と言う場合が多い。

5つの方角というのは、日本ではピンと来ないが、麻雀の四風牌の東・南・西・北に三元牌の「中」(ちゅん)という牌を加えたイメージが分かりやすいかもしれない。

その「五方」の「中」にあたる位置が、王朝の都である。

このように中国では、「中央」「中心」という意識がとても強い。

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中国における遷都の歴史は?

(出典:http://www.allchinainfo.com/map/asia-china/chinadist_city_desktop2)

 

中国の歴代王朝の都、また近代以降の首都を挙げると、代表的な都市をいくつも思い浮かべることができる。
秦の咸陽(かんよう)、前漢の長安(ちょうあん)、後漢の洛陽(らくよう)、三国時代・魏の洛陽(らくよう)、呉の建業(けんぎょう、現在の南京)、蜀の成都(せいと)、隋唐の長安、宋の開封(かいほう)、金の中都(ちゅうと、現在の北京) 、元の大都(だいと、現在の北京)、明の南京と北京、清の北京、中華民国の南京、そして中華人民共和国の北京。

古代から中世の都は主に「長安」に、近世以降は主に「北京」に都や首都が置かれたと概括することができる。

これら中国における都・首都移動の在り方を上手く整理したのが、中国の研究者・閻崇年(えんすうねん)だ。
大きく言えば、殷周時代~五代北宋時代(古代~中世)までが東西移動、これは大体、北緯35度線上を西から東へと移動している。

ちなみに北緯35度線の延長線上の東端には、日本の奈良・京都 がある。

日本古代の朝廷が奈良や京都に都を置くことができたのは、結果として非常にラッキーだったと言えよう。

緯度が同じであることで気候的にも近く、中国の都で作られた暦をはじめとする季節感や各種文化を取り入れやすい環境にあったからだ。

「正倉院」(奈良市・東大寺)がシルクロードの終着駅と言われるが、奈良や京都は、中国の文化を取り入れるという面で地政学的な優位性を持っていたと言える。

 

さて、古代から中世までの東西移動を経て、近世から現在に至るまでの間、今度は南北移動に変わる。

およそ東経115度から120度の範囲で、開封から杭州へ、南京から北京へ、という風に都が南北に移る。

この南北移動の中で、「北京」や「南京」といった名称が確立されていった。

この東西南北の移動を、閻崇年は 「中国都城遷移的大十字趨勢」と名付けた。

(閻崇年『燕歩集』、北京燕山出版社、1989年)

 

これが、

「東西南北大十字形遷移モデル」

である。

 

まず東西移動について、第1に、経済的重心(主要穀倉地帯)が東南部に移動してきたことがその要因のひとつだ。

はじめは、黄河の中流域において主に畑作が行われていたが、三国呉の時代に長江周辺の開発が始まって稲作が盛んになり、東南部の生産力がどんどん上がっていった。

東南で作られた穀物を都に運ばなければならないが、物資輸送の問題もあって、結果として都自体の東方移動を引き起こした。

経済的な重心、つまり穀倉地帯が東南部に移り、中国の都もそれに吸い寄せられる形で移動したということだ。

 

第2に、北方民族の根拠地が西北地域から東北地域へと移ったことも、これに影響している。

北方民族の侵入については、当初、長安(西安)の周辺、つまり西北の方角から「匈奴」(紀元前4世紀頃から5世紀にかけて中央ユーラシアに存在した遊牧民族及びそれらが中核となって興した遊牧国家)が入ってきていた。

それがのちに「山海関」(河北省北部にある万里の長城の一部を構成する要塞。長城の東端)を通って、東北の方角から侵入するようになった。

古代から中世にかけての都の東西移動は、これらが絡み合った結果として見ることができる。

 

(洛陽にある麗景門、出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Lijing_Gate,Luoyang.jpg)

 

次に、近世から現代に至るまでの南北移動について見ていく。
10世紀以降、遼、金、元、(明を挟んで)清と、いずれも北方系の民族による非漢族政権が成立する。

それらはすべてまず、中国北部に都を定め、王朝の成立を天下に宣言した。

すると、長安や洛陽などの旧都は軍事的重要性を失い、結果的に都の南から北への移動が始まった。

明の時代には、後述する南京から北京への「北京遷都」が行われ、また近代には中華民国の首都・南京から中華人民共和国の首都・北京へと、中国の政治的中心は南北の移動を繰り返した。

 

首都が政治権力の中心である以上、その移動においては経済的ファクターよりも、政治的ファクターが大きな意味を持つ。

これは洋の東西を問わないが、中国における都や首都の移動においては、政治的なファクターがより強く働いていた。

北京が1000年近く都や首都としての地位を保持しえたのは、「北辺防衛」(東北地域から侵入する北方異民族への対応)に代表されるような政治・軍事的要因が大きく作用していたと言えよう。

「北辺防衛」の重要性は、商業化がはじまる近世以降も同様であった。

このように、中国社会の経済発展と政治的展開がもたらした民族衝突・融合(※)の必然的所産が、先に述べた「東西南北大十字形遷移」の軌跡なのである。

(※)北方系異民族による国家・遼や金などの人々は、新しい王朝に取って代わられた後も北中国に定着し、のちに漢族の重要な一部を構成する。このように、王朝の交代を繰り返す過程で、漢民族は様々な異民族と融合・吸収してきた経緯がある。

(中国と地中海世界の間の歴史的な交易路・シルクロード。その中心であった西安(長安)の街並み、出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89_(%E4%B8%96%E7%95%8C%E9%81%BA%E7%94%A3))

また、妹尾達彦氏(中央大学文学部教授、歴史学者)が指摘するように、中国の都の立地は周辺地域に対して多大な影響を与える。
長安に代表されるように、都が中国西北地域にあった時代には、シルクロードに象徴される西北側の地域との関係が密接だった。

それが南京・杭州など南部に移れば、鄭和(中国明代の宦官 。南海遠征の総指揮官として船団を率いて、東南アジア、インドからアラビア半島、アフリカにまで到達した)に代表されるように、東南アジアなどとの交流が盛んになった。

逆に、北京に都が移ると、例えば朝鮮半島モンゴリア(モンゴル高原)・マンチュリア(旧「満州」)との関係が密接になる。

例えば、李朝(1392年から1910年にかけて朝鮮半島に存立した王朝。朝鮮民族の最後の王朝で、現在までのところ朝鮮半島における最後の統一国家でもある)の時代には、中国との交流が盛んに行われた。

中国の都の立地というのは、単に国内的な問題だけではなくて、周辺地域に大きな影響を与えるという、相互規定的な関係にもあったのだ。

 

(中)に続く

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