【連載】ロシアの実像を探る (2)日本とロシアの初めての接点[茅野 渉]

      2018/04/30

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日本人とロシア人の初めての出会い

前回は日本人がロシアを好きになれない理由を、第二次世界大戦から今までの出来事に求めて見ました。今回は補足の意味で、それ以前の日露関係についても触れておきましょう。

記録に残る日本人とロシア人の初めての出会いは、1696年に大阪の商人・伝兵衛がその船の遭難でカムチャッカに漂着し、そこでロシア人に救われた時だったようです。

ロシア人が元々カムチャッカに住んでいた訳ではありません。彼らが西からやってきて初めてオホーツク海に到達したのは1639年で、伝兵衛漂着の半世紀前、日本では江戸幕府がいわゆる鎖国政策を始めた頃でした。

今でこそロシアは世界最大の面積を持つ大国ですが、長いモンゴルの支配を脱して、「ロシア」と言う国名を名乗れるようになったのは漸く1400年代の後半(日本では銀閣寺が建てられた頃です)で、その当時のモスクワを中心とする支配領域は今の日本の広さと大して変わりませんでした。

それからの100年間で北へ南へと領土を広げます。そして次の100年間、つまり1500年代の後半から1600年代の前半に懸けて、今のロシアの面積の8割近くを占めるウラル山脈から東(の大部分)を征服したことになります。100年でそれだけの土地を征服できたのも、当時はシベリア全体で僅か20万人ほどしか人が住んでおらず、戦闘があっても鉄砲を知らない少数民族が相手だったからなのでしょう。

 

(V.スリコフ 「エルマークのシベリア征服」1899年) https://jp.rbth.com/arts/2016/10/31/643571

 

 

東へ東へと領土を拡大するロシア

領土拡張の動機は税の代替となる毛皮の獲得です。当時は大変価値のあるものとして扱われました。その担い手は大商人とその配下のコサックたちです。このコサックとは、ロシアの南部辺境地に集まった税逃れの農民や犯罪者たちで、自由民とも呼ばれますが、有り体に言ってしまえば、税を払わず、国のいうことも聞かないアウトローたちの集団です。

 

(I.レーピン 『トルコのスルタンへ手紙を書くザポロージャ・コサック』(1891年) ロシア美術館)  https://ja.wikipedia.org/wiki/イリヤ・レーピン

 

その彼らが、まずは西シベリアを征服したことでロシアの皇帝も恩赦を施し、これまでの罪を許すからお国のためにもっと働いてこい、となり、彼らはさらに東への踏破に向かっていきました。

反逆者たちが時の権力の有力な戦士となる - シャーウッドの森に籠るロビンフッド以下の面々がやがてはリチャード獅子心王から罪を許されてその臣下になったという話や、梁山泊の108人の反乱分子・豪傑たちが徽宗帝に帰順し、国のために賊軍・外敵と戦うことになった『水滸伝』を思い出させます。

オホーツク海を見た後は南に下って、だったのですが、そこには清という、今の中国の前身に当る大国が誕生していました。この建国の意気上がる清と事を構えて、結局一度は入り込んだ中国東北部のアムール川流域からロシアは追い払われてしまいます。このため、進路を南ではなくさらに東に取らざるを得なくなり、その先がカムチャッカとなります。これが1600年代の終わりで、伝兵衛が漂着したのはこの頃でした。

ロシアと日本との接触が目に見えてくるのはそれから100年ほど後のことですから、清が防波堤になってくれたおかげで、日本がいきなりロシアに襲われることもなかったと言えるのかもしれません。

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