モルドバ公国、ロシア、ルーマニア、ソ連 翻弄されるモルドバの民

   

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首都キシナウにあるモルドバ公国の名君、シュテファン3世像

首都キシナウにあるモルドバ公国の名君、シュテファン3世像

今月は、ウクライナとルーマニアの間に挟まれた旧ソ連のモルドバ共和国を取り上げる。

モルドバは歴史的、政治的にヨーロッパとロシアの間で揺れ動いている国で、未承認国家「沿ドニエストル共和国」が存在する。

また、昨年は在日モルドバ大使館の設立や大統領選挙など政治的なイベントも多かった。この記事では、モルドバの情勢を本格的に見ていく前に、モルドバの概要を整理したい。

世界でも特異な国、モルドバ

モルドバ

東欧の片隅に存在するモルドバ。日本の九州程度の大きさだ。

ヨーロッパの人であっても、モルドバを地図で指し示すことが難しいだろう。

モルドバは、ウクライナとルーマニアの間に挟まれた九州ほどの面積を持つ国だ。人口は約290万人(沿ドニエストル共和国を除く)、首都はキシナウ(ロシア語読みはキシニョフ)だ。

民族構成はラテン系のモルドバ人が78.4%、スラブ系のウクライナ人8.4%、ロシア人5.8%となっている。

モルドバは世界でも特異な国といえる。なぜなら、モルドバ人は隣国のルーマニア人と人種的、言語的にもほとんど同じなのだ。

その証拠に、現在のモルドバの公用語はルーマニア語である。それでは、なぜ「モルドバ共和国」という国が成立したのだろうか。その問いに答えるためには複雑な歴史を見なければならない。

19世紀の露土戦争

モルドバ

モルドバの首都キシナウにある 露土戦争の勝利を記念してロシアが建てた凱旋門

モルドバはもともとルーマニア人の国家、モルドバ公国の一部だった。その後、モルドバ公国はオスマン帝国の支配に入り、19世紀初頭にはロシアとトルコが戦った。

その結果、現在のルーマニアとモルドバの国境にあたるプルート川から東の部分がロシア領になり、「ベッサラビア」と呼ばれるようになった。これが、現在のモルドバが成立したきっかけとなった。

ロシア革命後、ベッサラビアはルーマニア領となったが、1940年にソビエト連邦が占領し「モルダビア・ソビエト社会主義共和国」として、ソビエト連邦を構成する一共和国となった。

1991年、ソビエト連邦の弱体化に伴い「モルドバ共和国」として独立した。独立時はルーマニアとの合併も議論されたが、具体的な政策にはなっていない。

また、ロシア、ソ連が統治していた期間が長期間に渡ったので、ロシア語も広く通用する。

一つの未承認国家と一つの自治区

モルドバ

東にひも状に広がるのが「沿ドニエストル共和国」(青)、南に飛び地になっているのが「ガガウズ自治共和国(自治区)」。

モルドバのユニークさは歴史にとどまらない。モルドバは小国でありながら、モルドバ中央政府が管理できていない未承認国家「沿ドニエストル共和国」が存在する。

「沿ドニエストル共和国」 モルドバ

「沿ドニエストル共和国」の国旗。共産主義の影響が色濃く残る。

「沿ドニエストル共和国」は独自の国旗、国歌、政府を持ちながら、どの国からも国家承認を受けていない。「沿ドニエストル共和国」にはロシア人やウクライナ人などのスラブ系民族が多く居住する。

さらに、南部にはテュルク系でありながら正教を信仰するガガウズ人が多く住む自治区「ガガウズ自治共和国」が存在する。こちらもモルドバからの独立の動きを見せていたが、現在ではモルドバ共和国の統治下にある。

このようにモルドバは隣国ルーマニアと人種的、言語的に同じでありながら、未承認国家と自治区がある世界でもまれに見るユニークな国だ。このようなユニークな国には、どのような問題が存在するのだろうか。

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1987年生まれ。神戸市出身。神戸大学大学院国際文化学研究科修了(国際関係・比較政治論コース)。専門はユーゴスラビアといった中東欧の政治・国際関係。
民間企業に勤務後、3ヶ月間の中東欧でのバックパッカー体験を経て、2016年より独立。『Compathy Magazine』『TRIP’S』など複数のメディアで活躍中。

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